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歴代校長 初代~6代目まで

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初代
澤井甃平
(生没年不明)

京都府淀の人。六稜同窓会編集の二つの記念誌『創立50周年』と『創立60周年』には、ともに初代校長として師範学校長兼任であった澤井甃平の写真が掲げられている。以後の記念誌では消えているのに、創立の時点を1883年として数えていた時期の記念誌がそれ以前の校長を初代と考えているのはおもしろい。

任期:1881-83

原典●『北野百二十年』p.36


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第2代目
山中立蔵
(生没年不明)

府立大阪中学の開校と同じ日付の1883(明治16)年7月2日、大阪府学務課御用掛の山中立蔵が校長に任命された。ただし在任期間は僅か4ヶ月余りで、11月には大阪師範学校長に転じた。

任期:1883.7-83.11

原典●『北野百二十年』p.48


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第3代目
宮野元貞
(生没年不明)

山中立蔵の後任として、師範学校校長心得だった宮野元貞が本校校長心得となるが、彼も在任1年で府学務課へもどる。山中の写真以外に、二人に関する資料は校内に残っていない。

任期:1883.11-84

原典●『北野百二十年』p.48


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第4代目
矢部善蔵
(1852-????)

1884年10月、宮野元貞校長心得が府学務課へ帰り、前広島県中学校長の矢部善蔵が校長に就任した。矢部は、以後1982年11月に離任するまで8年1ヶ月の間に、本校初期の基礎と校風が築かれる上で重要な役割を果たしたといってよい。『明治廿年六月調査大阪尋常中学校一覧略』中の履歴によると、1852(嘉永5)年生まれで本籍は、静岡県、旧掛川藩士族である。掛川藩教養館で漢学、静岡の英学校で英書を学び、さらに慶応義塾に1年4ヶ月在学した後、1874年から同塾京都分校兼大阪分校、さらに三田本校の教師として英語を教えた。76年12月から77年7月まで土佐で片岡健吉らが設立した立志学舎へ招かれて英書を講じている。立志社が西南戦争に動揺する頃であり、彼が民権運動とどう関わったか興味深いが、何も語られていない。再び三田へ戻った後、78年12月から広島県中学校長兼師範学校長となった。84年5月に広島を去り、10月本校に着任した。年齢32歳、月俸は60円であった。本校離任後は、埼玉県尋常師範学校・滋賀県商業・徳島中学校の校長を歴任し、退職後京都二条に高等女学校を開いて経営した。

任期:1884-92

原典●『北野百二十年』p.51


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第5代目
山崎忠興
(1856-????)

愛媛県士族。1856(安政3)年生まれで着任時36歳。宇和島藩校で学び、ついで慶応義塾大阪分舎、同三田本舎から東京師範学校中学師範学科に転じて同校を1878年に卒業した。新設の千葉県中学校、東京女子師範学校勤めた後郷里に帰り、愛媛県南予中学校長、岐阜県尋常師範学校教諭、伊予尋常中学校長、愛媛県尋常中学校長兼教諭を歴任した後本校へ着任した。約2年半在任し、1895年7月8日休職となった。

任期:1892-95

原典●『北野百二十年』p.59


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第6代目
金子銓太郎
(1865-1937)

1865(慶応元)年東京の浅草で士族の長男として生まれた。東京大学の政治学科を卒業し、大蔵省に勤務。その間に近衛歩兵第2連隊に入隊している。93年5月、大分県尋常中学校長。日清戦争に召集され陸軍中尉に昇進。95年に本校校長になった時にはまだ30歳の若さである。

任期:1895-99

原典●『北野百二十年』p.64