古河太四郎ものがたり

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 嘉永元年(一八四八年)、大阪の堀川にて、お米屋や八百屋をしていた「播磨屋」の五代家に、五代五兵衛さんが生まれました。
 五兵衛さんの家は裕福な家で、家にある米の入った俵で遊んだり、寺子屋という昔の学校に通ったりしていました。その中でも算数が得意で計算が早かったので、いつもお父さんをおどろかせていました。

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 文久三年(一八六三年)、五兵衛さんは一六才の時に目の病気にかかってしまいました。その病気は、三人の弟や妹にもうつりましたが、弟たちはやがて治りました。
 五兵衛さんは治りが悪く、次の年に回復した頃には、両眼とも見えなくなっていました。慶応二年(一八六六年)には弟の音吉が生まれました。


 明治二年(一八六九年)に、五兵衛さんの父が病気で亡くなってしまい、二二才の五兵衛さんはお父さんのあとをついで五代目になりました。
 ところが、播磨屋のお店はお米屋と八百屋の仕事がなくなり、五代家の生活は苦しくなりました。
 そこで、五兵衛さんはあんまという体をもむ仕事や周旋屋という人の世話をする仕事、うさぎを売る仕事、家や土地を売る仕事など、いろいろな仕事に力を入れ、七人の家族を支えました。


 その頃、耳がきこえない子どもや目が見えない子どものための学校は京都や東京にはありましたが、大阪にはそのときはありませんでした。
 京都にある「京都盲唖院」は古河太四郎先生が明治一一年(一八七八年)に設立した、日本ではじめての目が見えない子どもと耳がきこえない子どもの学校です。
 大阪にいた五兵衛さんは四四才の時、目が見えない子どもと耳がきこえない子どものための学校について考えるようになりました。


 明治三二年(一八九九年)、五二才になった五兵衛さんは、三四才の弟の音吉さんといっしょに、京都にある京都盲唖院を見学しました。その時に古河先生と出会いました。
 そして京都盲唖院を建てた古河先生の講演を聞き、五兵衛さんは大阪にも同じような学校を建てようと決意しました。


 五兵衛さんと弟の音吉さんは、目が見えない子どもと耳がきこえない子どもの学校を大阪につくる計画を立てました。明治三三年(一九〇〇年)の二月に、大阪府に認めてもらうためにその計画書を提出しました。
 その一ヶ月後に設立の認可がおり、そして九月一三日、「浄久寺」というお寺の中で、ついに「私立大阪盲唖院」が開校したのです。


 目が見えない子ども三人と耳がきこえない子ども二二人、合わせて二五人がこの新しい学校に通い始めました。子どもの数は増え続け、その三年後には一三〇人を超えました。
 子どもたちは、五兵衛さんが大好きでした。いつもにこにこと手を引かれて歩いていて、だれもが五兵衛さんに寄っていってあいさつをしていました。五兵衛さんは、寄宿舎の小さな部屋で、夕ご飯に必要なかつおぶしをけずるなど、少しでも自分のできることを見つけて学校のためにつくしました。


 五兵衛さんは、自分は子どもに勉強を教えたことがないので、京都にいた古河先生にこの学校の院長(校長)になってくれないかとお願いしました。
 五兵衛さんの熱意に動かされ、院長になった古河先生と二人の先生は、目が見えない子どもに国語や算数、あんまやお灸、音楽を教え、耳がきこえない子どもには国語や算数や体育、図工や彫刻、裁縫を教えました。五兵衛さんは、朝早くから夜おそくまでいろいろなところを回り、どうか寄付していただけませんかと頭を下げて、学校に必要な資金を集めました。


 多くの人がお金を寄付してくれたのですが、毎年集めることは大変でした。年を取った五兵衛さんは自分が死んだ後のことが心配でしかたがありませんでした。
 明治三七年(一九〇四年)に、五兵衛さんたちはつらい決断をしました。自分が建てた学校を大阪市に移管して、学校を続けてくれるようお願いしたのです。
 大阪市の議会で何度も話し合いが行われました。そして明治四〇年(一九〇七年)に大阪市への移管が決まり、四月から「市立大阪盲唖学校」になりました。五兵衛さんは、これで学校はずっと続いていくと喜びました。


 五代五兵衛さんは、目が見えなくなっても、家族のために仕事に奮闘し、大阪に目の見えない子どもと耳がきこえない子どもの学校を建てました。古河太四郎先生は、その学校の院長(校長)になり、子どもたちに勉強を教えました。明治三三年(一九〇〇年)に建てられた「私立大阪盲唖院」は、「市立大阪盲唖学校」、「大阪市立盲唖学校」、「大阪市立聾唖学校」、「大阪市立聾学校」、「大阪市立聴覚特別支援学校」「大阪府立中央聴覚支援学校」と名前を変えながら、今日まで続いています。
 五代五兵衛さんと古河太四郎先生、そして二人を支えた周りの人たちのおかげで、今でも子どもが楽しく過ごすことができる聾学校ができました。この聾学校は、二人やたくさんの人たちの信念と愛情がつまった学校としていつまでも続いていくことでしょう。


典拠 2016年本校発行『大阪市立聾学校人物伝 五代五兵衛と古河太四郎』