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本校にゆかりのある人物
本校にゆかりのある人物
五代 五兵衛 (ゴダイ ゴヘエ)
1848年(嘉永1)
大阪にて出生。幼名は市松。
1863年(文久3)
16歳の時に風眼を患う。
1864年(文久4)
両眼を失明する。
1900年(明治33)
3月19日、私立大阪盲唖院の認可を受ける。
1900年(明治33)
9月13日、私立大阪盲唖院開校。浄九寺内に仮校舎を置いて盲児、ろう児の教育を施す。
1907年(明治40)
4月18日、無償にて同院を大阪市に移管し、市立大阪盲唖学校と改称する。
1913年(大正2)
9月12日、逝去。享年66歳(数え年)。
古河 太四郎(フルカワ タシロウ)
1845年(弘化2)
2月20日、京都にて出生。
1869年(明治2)
京都市立待賢小学校教師になる。
1873年(明治6)
同校にて盲ろう児教育を開始する。
1878年(明治11)
私立京都盲唖院を開院。助教となる。
1882年(明治15)
同院長に就任。
1889年(明治22)
同院長(京都府盲唖院)を依願免職。
1900年(明治33)
五兵衛に請われ、私立大阪盲唖院院長に就任。
1904年(明治37)
勅定藍綬褒章を賜る。
1906年(明治39)
小西校長・鳥居院長と共に建議書を提出する。
1907年(明治40)
市立移管に伴い市立大阪盲唖学校長に就任。
1907年(明治40)
12月26日、逝去。享年62歳。
髙橋 潔(タカハシ キヨシ)
1890年(明治23)
3月17日、宮城県仙台市にて出生。
1913年(大正2)
東北学院英文科卒業後、東北中学に勤務。
1914年(大正3)
3月31日、市立大阪盲唖学校に奉職。
1924年(大正13)
大阪市立聾唖学校校長に就任。
1932年(昭和7)
創立十周年記念祭にてORAシステムを発表。
1933年(昭和8)
全国聾唖学校校長会総会に出席。「聾教育の振興に関する適切なる方法」に対し手話学級設置の必要性を述べる。
1944年(昭和19)
勲四等瑞宝章を賜る。
1949年(昭和24)
大阪市より教育功労者として表彰。
1952年(昭和27)
退職。
1958年(昭和33)
1月9日逝去。享年67歳。
大曾根 源助(オオソネ ゲンスケ)
1896年(明治29)
4月9日、宮城県にて出生。
1920年(大正9)
東北学院英文科卒業後、10月15日に大阪市立聾唖学校に奉職。
1929年(昭和4)
渡米。51校聾学校視察、ヘレンケラーと面会。
1930年(昭和5)
帰国。
1931年(昭和6)
髙橋潔らと一緒に大曾根式指文字を考案。
1932年(昭和7)
創立十周年記念祭にて指文字を発表。
1836年(昭和11)
大阪市立聾唖学校教頭に就任。
1952年(昭和27)
大阪市立聾学校校長に就任。
1957年(昭和32)
退職。
1967年(昭和42)
勲四等瑞宝章を賜る。
1972年(昭和47)
3月21日、逝去。享年75歳。
福島 彦次郎(フクシマ ヒコジロウ)
1891年(明治24)
7月13日、大阪府にて出生。
1897年(明治30)
この頃、中耳炎のために失聴。
1901年(明治34)
11月23日、私立大阪盲唖院入学。古河太四郎先生に教えを受ける。
1904年(明治37)
3月病気のため退学するが、翌年5月再入学。
1906年(明治39)
私立大阪盲唖院普通科卒業(第二回卒業生)。同院技芸科洋服裁縫科入学。
1910年(明治43)
市立大阪盲唖学校聾唖学友会副会長に就任。同会機関紙『聾唖学友会誌』を第四号まで編集。
1911年(明治44)
同校技芸科を卒業後、同校に奉職(教務助手)。本校最初の聴覚障害教員となる。
1913年(大正2)
早稲田大学文学科課程を履修。翌々年及第成業。
1930年(昭和5)
日本最初の聾の高等官八等待遇を受ける。
1937年(昭和12)
『五代五兵衛』を編集し発行する。
1949年(昭和24)
5月21日、在職中に逝去。享年57歳。
藤本 敏文(フジモト トシフミ)
1893年(明治26)
1月11日、大阪府にて出生。
1900年(明治33)
髄膜炎に罹り、2年後に完全に失聴する。
1904年(明治37)
京都市立盲唖院に編入、翌年卒業。
1909年(明治42)
財団法人私立松江盲唖学校に赴任。
1914年(大正3)
私立広島聾唖学校に赴任。
1915年(大正4)
東京聾啞学校師範科に入学、翌月卒業。
1916年(大正5)
私立福岡盲唖学校に赴任。
1918年(大正7)
8月8日、市立大阪盲唖学校に奉職。
1935年(昭和10)
聾唖月報社発刊「聾唖年鑑」を編集。
1950年(昭和25)
財団法人全日本聾唖連盟連盟長に就任。
1953年(昭和28)
大阪市立聾学校の非常勤講師。
1957年(昭和32)
日本最初の聾の藍綬褒章を賜る。
1964年(昭和39)
財団法人全日本聾啞連盟名誉連盟長に就任。
1965年(昭和40)
勲四等旭日小綬章を賜る。
1967年(昭和42)
退職。
1976年(昭和51)
3月31日、逝去。享年83歳。
藤井 東洋男(フジイ トヨオ)
1903年(明治36)
2月18日、兵庫県にて出生。本校教員であり難聴のつやを姉に持つ。
1923年(大正12)
3月31日、大阪市立聾唖学校に奉職。
1928年(昭和3)
聾唖者劇団「車座」を設立。舞台制作を主担当。
1930年(昭和5)
ヨーロッパへ視察に派遣。
1931年(昭和6)
第四回国際聾唖者大会の日本代表として参加。
1932年(昭和7)
帰国。
1947年(昭和22)
退職。種子島へ渡り農場を経営。
1949年(昭和24)
同校に復職。
1952年(昭和28)
1月24日、逝去。享年48歳。
松永 端(マツナガ タン)
1899年(明治32)
8月17日、大阪府にて出生。
1925年(大正14)
早稲田大学露文科中退、井伏鱒二らと同人雑誌「鷲の巣」を執筆していたが、7月3日大阪市立聾唖学校に奉職。
1928年(昭和3)
聾唖者劇団「車座」を設立。演技指導を主担当。
1945年(昭和20)
本校を退職後、相愛学園に勤務。
1961年(昭和36)
日本聴力障害者新聞に『手まねの郷愁』、『手まねの研究』、その他に随筆『手』、新聞小説『燃ゆる氷河』『地獄の饗宴』を手掛ける。
1963年(昭和38)
日本で初めての『手話辞典』を出版。
1972年(昭和47)
3月3日、逝去。享年72歳。
大家 善一郎(オオイエ ゼンイチロウ)
1907年(明治40)
9月24日、福井県にて出生。先天性難聴。
1929年(昭和4)
大阪聾唖学校中等部普通科卒業後、同校に奉職。
1942年(昭和17)
退職し家業を継ぐ。
1948年(昭和23)
大阪市立聾学校に復職。
1964年(昭和39)
全日本聾唖連盟連盟長に就任。
1977年(昭和52)
退職。
1978年(昭和53)
勲四等瑞宝章を受章。
1979年(昭和54)
全日本聾啞連盟名誉連盟長に就任。
1993年(平成5)
社団法人大阪聴力障害者協会名誉顧問に就任。
1993年(平成5)
7月29日、逝去。享年85歳。
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