創立50周年記念式典 式辞
大阪府立茨田高等学校 創立五十周年記念式典式辞
令和6年度の今年、本校は創立五十周年を迎えました。本日はこの50周年を祝う式典に、学校運営協議会の委員の方々をはじめ、学校医、学校歯科医の先生方、PTA、旧職員の皆様、また、今回は多くの同窓生の方々にもご臨席を賜り、厚く御礼申し上げます。
本来であれば、学校運営協議会の副会長、寺野雅之第12代茨田高校校長がこの場におられるはずでしたが、今年の8月5日に逝去されました。寺野先生は本校がコミュニケーションコースを立ち上げる際、大変ご尽力いただき、また今年度のピア・メディエーションの授業では、メディエーター認定試験の審査をしていただく予定でした。茨田高校と言えば寺野先生といわれるほど、19年間茨田高校のために、そして生徒のために力を尽くしてこられ、今の茨田高校があると言えます。その功績を称え、ご冥福をお祈りしたいと思います。PTAの協力により作成いたしました記念誌には、5月にいただいた寺野先生の寄稿文が掲載されております。
さて、本校は昭和47年に旧城東区に結成された「府立学校をつくる会」などの地元の熱い思いと願いの中で、府立学校96番目の高校として、昭和50年4月に開校しました。50周年を迎え、この間、「研鑽錬磨」を礎に、日本の産業・社会を支える優秀な人材を多く輩出してまいりました。
開校3年後の昭和53年にはラグビー部が全国大会出場、56年にはレスリング部全国大会出場、57年にはラグビー部、レスリング部が共に全国大会出場、60年にもラグビー部全国大会出場など部活動で輝かしい功績を残しました。このころにラグビーで活躍された方が9期生清宮克幸さんです。今年行われた、ラグビー部創立50周年のトークショーでは、「茨田高校の恩師である吉岡先生に見出してもらえなかったら、今の自分はない」と当時の茨田高校について振り返っておられました。昭和61年には徳庵橋北詰に「美術部の制作壁画」を序幕し、平成7年には「学園の森」も完成しました。
平成10年には吹奏楽部が「ふれあいピック大阪」で単独演奏、平成16年には、創立30周年の記念事業としてPTA・同窓会の協力のもと「太陽光発電システムの導入」、18年からはNPO法人シヴィルプロネット関西の故津田尚廣様、池田真茶様をはじめとする方々の協力で「ピア・メディエーション」の取組、22年には「コミュニケーションコース」の設置に至りました。また、23年には「使える英語プロジェクト・イングリッシュフロンティアハイスクール」に指定され、24年には「中庭野外ステージ設置」、中高連携の一環で運動部の「茨田カップ」も開催されました。26年の創立40周年では「制服の改定」、「自習室開設」、同窓会の協力を得て「挨拶どおりの設置」、「サイエンスデイ参加」なども行いました。平成28年には文化部を中心とした「茨田フェスティバル」も開催しました。
平成29年には、学校経営推進費に応募し、「全HR教室にプロジェクター設置」、また同窓会の全面協力のもと「食堂のリニューアル」が実現し、定員割れが2年続いた中、これらの取組に対する成果が実を結び、次年度30年入学生選抜で定員割れを逃れることができました。しかし、令和2年から新型コロナウイルス感染症の影響もあり、広報活動がままならない状況の中、3年連続定員割れが続き、令和5年度選抜から募集停止、令和6年度末をもってこれまで築いてきた茨田高校のコミュニケーション教育や文化を、大阪府立野崎高等学校との機能統合という形で引き継ぐこととなりました。
来年度からこの茨田高校の跡地は知的障がいのある生徒の支援学校としてリニューアルされ、活用する計画となっております。
今回の創立50周年記念事業の1つとして、本校美術部3年生の金ジニさん、佐藤あいりさんの描いた絵が同窓会の協力を得て徳庵橋北詰に新たに「壁画」として残ることとなりました。本校美術部の歴史を辿れば、2期生の任天堂スーパーマリオを手掛けた手塚卓志さんも本校の美術部出身で50周年の記念誌にイラストとともに当時の茨田高校のことについて寄稿していただきました。(本日、ご出席いただいております。)
また、50周年の記念事業として、PTA・同窓会の協力を得て、記念のCDを制作することといたしました。まず、50周年記念曲としてNHK教育番組クインテットやマツケンサンバを作曲された宮川彬良さんに作曲を委嘱しました。茨田高校を肌で感じるためにと宮川さんが本校を訪問され、初めてお会いした際、本校についてお話をさせていただいていた中で、何か強いインスピレーションを感じられた様子で、「閉じられていく学校」というイメージから湧き上がる曲を制作していただく運びとなりました。本日配付させていただいたCDに入っております「Mattan(末端)の嘆き」という楽曲がその曲にあたります。この曲について宮川さんからは、高校の閉校というひとつの社会問題、単にエールを送るのではなく、懐かしむわけでも、ただ嘆き悲しむのではなく、『母校』という名の巨大な『母』への回想と追悼を表した作品に仕上がった。今やガラーンとしたあの巨大校舎から聞こえてくる何万もの生徒たちの声を『代弁』ではないけれど、何とも言い難い心がもがく様を音楽で『共有』したかった。タイトルは、今後この曲が色々な場面で頻繁に演奏されることを願って、全くの他人も興味を引くような名前にした。Mattanとは茨田に生まれた又は育った人々という意味と社会的な"末端"を掛け合わせた宮川さんの造語とのことです。本校のマスコットキャラクター「まったん」をご存じでない中での曲名に縁を感じるばかりです。私自身もこの曲を聴き、本校での教員生活を重ね合わせ、様々な思いが共有されるような気持ちになりました。また、多くの皆さんも聞き覚えのあるメロディもそこにはありました。
早速、宮川さんから《Mattan(末端)の嘆き》という「楽曲」を、いま自分が携わっているアニメ映画に挿入したいというメッセージもいただいており、多くの方にこの曲の存在を知ってもらえることになりそうです。
さらにこのCDに収録されている校歌は元大阪シオン音楽団員のトロンボーン奏者である、松下浩之さんが、壮大な自然を感じられるような新しい形でアレンジしてくださいました。校歌の合唱では地元のアンサンブルつるみ合唱団様の協力を得て、地域の方と生徒、教員の有志で8月に収録をいたしました。また、CDに印刷された中庭の写真は本校3年生の山口隼人さん撮影によるものです。このように、CD制作には本校とご縁のある方や大阪シオンウィンドオーケストラ様など多くの方々のご協力のもと完成することができました。本当に有難うございました。
またこの後の記念講演は、PTAの協力を得て、これまでコミュニケーションコースを支えていただいた甲子園短期大学学長の早坂三郎様のご縁で、コミュニケーション総合の科目を長年ご担当いただきました、「木下晴弘」様にお願いいたしました。生涯にわたり皆さんの心に残るお話となることと確信しております。
最後に、閉校が決まってからの茨田高校には、同窓生の皆さんから、「最後に茨田高校を一目見たい」という方々の問い合わせが多く、コロナ禍でもあり、まだ在校生のいる中、また働き方改革のさなか、お断りすることもありましたが、それだけ本校への思いが熱いと感じることができました。中には突然訪問される方、涙する方もいらっしゃいました。今年6月に行われた大同窓会では200名を超える多数の同窓生の方々が参加されました。閉校は思い入れのある同窓生の皆様、教職員の皆様にとって、また私事となりますが、19年間茨田高校で勤務した私にとっても、大変残念なことですが、皆様のおかげで何とか閉校までに節目である50周年を迎えることができ、また茨田高校が閉校することを皆様に周知する中でお別れできる機会ともなりました。
卒業生にとっての母校のぼは「母」と書きます。たくさんの子どもたちを産み育て、社会へ送り出し、その半世紀の間、数えきれないほど、様々な出来事があり、それでもなお、変わらず静かに見守り続け、最後の最後まで私たち全員に「学び」とは何かということを考える機会をも与えてくれたと思います。私自身もこの茨田高校で多くを学びました。
50周年の「記念誌」や「校歌のCD」、「記念講演」、「美術部の制作壁画」、そして「母校」は、茨田高校がなくなっても皆さんの記憶に深く刻まれ、生き続けることでしょう。
3月1日には茨田高校の最後の卒業式とともに閉校式が行われます。茨田高校を最後までよろしくお願いいたします。
生徒・保護者の皆様、教職員の皆様、地域の皆様、茨田高校に関わっていただきました全ての方々に対し、これまで本校へのご理解、ご協力、ご支援を賜り、感謝申し上げますとともに、最後に皆様方の御健勝と御多幸をお祈りし、式辞といたします。
令和六年十二月七日
大阪府立茨田高等学校 校長 松井 くみ子