沿革<1>

1922(大正11)年 生野高等女学校の創立最初授業を行った泉尾高等女学校校舎

 勝山高校の前身である大阪府立第12高等女学校は、1922(大正11)年4月、12番目の府立女学校として設置されました。当時の女学校の修業年限は5年、生徒定員は1000名という大規模な学校でした。開校時は、同時に設立された第11高等女学校とともに泉尾高等女学校の校舎を間借りして、3校同居の形で授業が行われていました。【右は泉尾高等女学校校舎】

 1922(大正11)年4月、第1回の入学式が挙行されました(第1回の入学状況は入学志願者605名、入学者199名、入学率32.8%、最初の教員数9名)。

第 1回体育小会プログラムと寸評

桃谷駅ちかくにできた生野高等女学校校舎

桃谷駅ちかくにできた生野高等女学校校舎 翌1923(大正12)年4月、名称を大阪府立生野高等女学校と改称し、12月21日、大阪府東成郡生野村(現大阪市生野区勝山南3丁目)、勝山通りの新校舎に移転しました。

1924年頃の金剛登山のようす

当時の教育方針は、大阪の土地柄もあり、「健康第一」というものでした。日常生活から校外遠足にいたるまで、この標語を目標に教育計画が立てられていきました。

【金剛登山1924年頃】

金剛登山1924年頃の金剛登山のようす

 金剛登山は学年行事中もっとも枢要なもので、1年間の心身鍛練への精進は是に結集さるヽものであり、又試練の機会でなければならぬ。

 大正13年9月27日に創めて実施せられて以来、毎年之を挙行してゐる。此の種の遠足は本来、体力別を主とするものであるが為、年次の別を離れて、全参加者を、觀心寺組、千早城址組、金剛頂上組の三つに生徒の体力と決意に応じて組別する。其の内、頂上組の参加数が、全体の58%であるが、毎次是以上に及ぶことがある。故障あり勝な女学生中にあって斯く多数参加すること其自らが彼女らの身体的試練による健康上の自覚と保証を確信せしめる。栞の終に添付してゐる参加印を押して各年とも頂上を極めたことを誇りとし且卒業後の健康保険に資するも亦宜なる哉である。

(嫩葉創立10周年記念号より)